先日、土取さんから「ちょっと調べてみてくれ!」と頼まれたのが、桐生での添田唖蝉坊の隠遁の地についてだった。
添田唖蝉坊という方は、明治・大正期の演歌師であった人物であり、その息子さんの知道さんが、土取さんのパートナーであった故・桃山晴衣さんに「演歌」を託したという経緯もあり、その意思を引き継いで、土取さんが現在進行形で、添田唖蝉坊・知道親子の演歌の系譜を、アルバムとして、今の世に送り出しているのである。
演歌と言えば、個人的には非常に好きな北島三郎さんが居る。まあ、彼のバックでだったら和太鼓でも何でも叩いてもいかな!?と思ってしまうのが・・・。(半分冗談、半分本気!)
そのサブちゃんの演歌とは、ちと違うということなのである。
演歌というのは、世の人々の生活が困窮しているのも政府と役人が悪い政治をしているから何とかしてほしいというメッセージと、また、自由民権運動の思想を分かりやすく庶民に広めるために編み出された歌なのであります。
世界的に見ても、相当な即興演奏のスペシャリストでもあり、フリージャズのレジェンドでもある土取さんが、今、何故にこの「演歌」を歌っているのか???と思うではありますが、土取さんが経験してきた音楽の背景には、この明治・大正期の演歌の精神というものが上手い事リンクしているんだろうなあ、と勝手に解釈している次第。
そして、全て語る必要も無いほどに、今の日本に「演歌」のスピリットが必要なんだと思えてならないのである。
桐生に添田唖蝉坊が隠遁していたというのも、何かの縁なのかもしれないなあ、と思いつつ、桐生の図書館へ行ってみたのである。
持ち出し不可の資料である、「桐生彩時記」に、「唖蝉坊と竹次郎稲荷」の一説があり、唖蝉坊が、桐生の小曽根町にあった、竹次郎稲荷の社務所で、隠遁生活を送っていたという下りがあった。
なんと平成になって、大川美術館の敷地が拡張される時に、この竹次郎稲荷と社務所は壊されてしまったらしい。
大川美術館に話を聞きに行ったら、図書館では見つけられなかった資料を見せてくれて、だいぶ立体的になってきたのだ。
ネットで調べるだけでは分からない事が、実際にその場所に行くと分かる事があるのは理解しつつも、今の世の中、ネット検索全盛の時代だ。
これは、自分でも気をつけなければいけないことだと肝に命じておきたいと、改めて思っていまったのだった。
そして、現在はその竹次郎稲荷は、市内の常祇稲荷に合祀され、常祇稲荷の参道の脇に小さな石塔が安置されている。
存在は、知っていて、その前を何度も通っていたのだが、初めて鳥居をくぐった。
年末に設置された茅の輪がまだあって、時空の扉があるかの如き、ちょっと不思議な空間の神社だったという印象。。。
伏見稲荷とまではいかないが、複数の朱色の鳥居をくぐり抜けるのは、なにやら不思議な感覚となってくる。
この手の柱の彫刻は、本当に素晴らしいなあ、と思う。たしか市内の日枝神社にもこんな彫刻の柱があったのを思い出す。
土取さんのおかげで、ほんの少しだが、郷土の歴史の片鱗を垣間見ることができ、なんだか楽しい時間を過ごすことができたのだった。
唖蝉坊が隠遁生活を送っていた竹次郎稲荷の社務所を「天龍居」とと名付けていたらしく、なんでも龍神の好きな方だったんだとか。
なんとなく、その人となりが分かってくると、また興味をそそられるもんだなあ、と思うのである。