原始感覚美術祭が、10周年にあたる今年は、念願かなって!!!というか、
「やらせてもらいたい!!!」と懇願して。。。
以前から演奏をしたかった、山本邸の蔵の二階に描かれた、香川大介さんの作品である、「蔵の二十二神像」の空間で音を奏でることができた。
これまで、香川さんとは、顔を会わせているものの、ゆっくり話をしたこともなかったので、なんの先入観もなく、この作品と対峙することができたのだ。
実際は、自分の創り出す音の世界と、この「蔵の二十二神像」は、きっと相性が良いに違いない!と、自分の好奇心が暴走気味に先行していたわけなのだが・・・・。
しかし、狭いスペースなのでライブ会場としては成立しない条件にも関わらず、この場での演奏会を実現してくれた、関係者のみなさんに心から感謝であります。
なんと、この二十二神像の各モチーフは、上の写真にある、この蔵の中にあった道具達という。
香川さんは、これらの道具たちに、新たに命を吹き込んで、蔵の壁面に鎮座させたのだ。やけにしっくりくる感覚であり、壁面が全て神像というのは、圧巻でしかない。
それぞれの神像の細部をじっくりみると、曼陀羅のようでもあり、細胞のようでもあり、宇宙空間のようでもある。
この蔵の中で初めてシンギングボウルの音を出した時、一気に空間が変化していった感覚があった。。。。
それは、原理としては音が発せられて消えて行くわけだが、奏でた音は、あたかもこの曼陀羅の様な神像の絵の中に吸収されていく様な錯覚を覚え、そして、この絵達が揺らめき始めた様にも見えたのだ・・・・。
音を紡ぎ出す道具としての楽器と、道具の神像たちとの融合が起こった瞬間だったのではないか!?と思うのである。
通常、お客さんが入って初めて成立するわけだが、楽器をセットした段階で、完結してしまった感じもあったほどだった。
そして今回は、自分で演奏をするわけだが、あくまでも主役はこの「蔵の二十二神像」なのだ。
当日は、ありがたいことに、多くの方々が来てくれて、これ以上は入れない状態まで人で埋め尽くされ、ライブは始まった。
始まった時は、さすがに人の気配が濃厚で、神像の存在は視覚的には見えてはいるものの、その気配は隠されていた雰囲気だった。
シンギングボウルのセットの音が、神像たちに吸収されていく時間があり、次は大銅鑼に!!!
この時、大銅鑼の重低音をゆっくりと響かせて、ゆったりした音像を創り出すかと思ったその瞬間、自分の左手には、黒檀の太いバチが握られ、大銅鑼の側面を強打!!!!
それも、一発ではなく何発も叩きまくる左手。勿論、意思はあり自分がやっていることではあるが、不思議な流れもあったのではないか、と思えてならないのである。
これは、自分でもビックリした瞬間だったが、これで神像たちが目覚め始めた感じもあった。
きっと、この下の画像にある、金槌の神像あたりが、やらせてたのではないかなぁぁぁ、と思っている次第。
最後の神楽太鼓の時には、人の気配は消えていて、終わった瞬間、の少しの静寂は、この神像たちの気配のみだった感じだった。
そして、目を開けると、観客の方々を含め、やけに清々しい空間が広がっていた。
目に見えない世界は、確実にあるとは思うが、それを香川大介さんが、目に見える状態にしてくれたわけだ。
終演後、誰も居なくなった空間で、彼の絵と対峙する時間。
それは、至福の時間でありました。
自分が目指している音の世界観と、香川さんの現している絵の世界観が、絶妙なバランスで融合したひと時だった様に思う。
また、この「蔵の二十二神像」の空間で、新たな融合を試みたいと思うのである。
本の神像に見送られて、この空間を後にしたのだった。