Dragontone /石坂亥士

神楽太鼓奏者・石坂亥士のブログ

賀茂神社秋の例大祭2022

10月15日は、賀茂神社の秋の例大祭宵祭りの日だった。そして、この日は、再会と再開の連鎖の日となったのである。

この椅子は、なんと9月19日の下記のパフォーマンスの時から、この森に置いたままとなっていて、もしかしたらと思って行ってみたら、そのまま森に鎮座しているという・・・。

奇跡の再会を果たしたのだった。

しん しん と・・・中之沢美術館から一ヶ月・・・・ - Dragontone /石坂亥士

その後、広沢賀茂神社へ!!!

久々となる例大祭だ。最後にやれたのは2019年の秋の例大祭だったので、まる2年空いてしまったという事になる。その間に、二人の神楽師がおの舞台に戻って来れなくなってしまうという現実もあり、ギリギリのメンバーだ。

精麻を撚り合わせた太い紐でツケ太鼓を締めていく。この工程がかなり独特だ。

立木に紐を回して、テコの原理で締め上げていく。大の大人が本氣になって思いっきり締めるわけだが、これがどうしてなかなかの重労働で、神楽師的には、例大祭の最大の難関とさえ言えるほどなのだ。

この太い紐にするのは、相当な量の麻が必要で、正直なところ、太鼓よりも高いのでは!?という金額がかかっているのだ。しかし、この麻の紐はもの凄く丈夫なのだ。

よく考えてみれば、太鼓に注連縄を巻いている様なもんかもしれない。

宵祭りでは、「白黒翁三番叟」の奉納だった。これは、舞台清めの舞とされていて、必ず最初に舞う演目だ。

俺は、渋い白翁を担当している。この舞の名人だった前会長がメインで舞っていたのだが、体力的にもう舞うことができないので、この秋の例大祭からは俺が舞うことになってしまったのだ。ひとつの舞を託されたことになってしまったのだ。

装束と面をつけて神楽殿に一歩踏み出した時、2年ぶりだったが、久々の神楽殿の感覚が蘇ってきた。

いつもは、春と秋にここに立っているので、当たり前と思っていた感覚だったが、歩を進める度に空間密度が濃くなり、時空がよじれる様な不思議な感覚を再認識することになったのだ。

楽殿とお囃子がセットになって、神楽的時空変換装置の役割を果たしているのかもしれない。この神楽殿での本番を重ねることで、神楽師が育てられていくのだとも感じるのだ。

そして、この白翁が舞う「鈴舞」は、見ているのとやっているのとでは天と地の差で、「 テンテン・テケテン・テン・ドンドンドコッ 」とゆったりしたお囃子の中で、鈴を「天地人」という具合に頭上、中間、下方向と、三段回の繰り返す動作を繰り返していくのだだ。視線は鈴をずっと見続けるのがポイントとなっていて、面の小さな穴から見える鈴とその音と共に、別次元に誘われる感覚に満たされていくのだ。

そして、鈴舞が終わって、神前に座って、鈴を振って終わりの合図を送ると、その呪術の様な時空が解かれるのだ。

これは、きっと一つ一つの所作を丁寧に積み重ねていき、反復することで成り立つ神楽的空間なのだと思うのである。

この刀は、刃引きした真剣で、この「白黒翁三番叟」で白翁が抜くまで、絶対に抜いてはいけない!!!という神楽師に伝わる取り決めがあるのだ。

「白黒翁三番叟」が終われば、誰が抜いても大丈夫とのことだが、何かあることは間違いないんだろう。

「道開けの舞」と言ったり「猿田彦の舞」と言ったりしているが、俺は、この舞は猿田彦を導く鉾廻しが主役だと感じている。

猿田彦の荒々しい形相に対して、ここの神楽面の中で一番高貴な面だと言える鉾廻し。

今回、久々に猿田彦を舞ってみて思うのは、やはりこの鉾廻しの面から漂う格の違いだった。

鉾廻しが常に先を行っていて、四方固めの時や鈴舞の時に相対して立ち、鉾回しの方に向かって進んでいくのである。

鉾廻しは、甥っ子の草吉が担当。2年前は、子どもの衣装で舞っていたのに、今回はなんと大人の衣装が着られるまでに成長していて、神楽師一同驚いてしまったという・・・。

背丈と雰囲氣で、この鉾廻しがかなり似合っていて良い感じでなのである。

実は、俺自身ものすごく鉾廻しをやりたいので、来年あたりは立場逆転して、草吉に猿田彦をやってもらえたら楽しいなあと密かに思っているところである。

こちら、2年前の記事。

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最後は、「稲荷山種蒔きの舞」だ!!!

この幕は、「お稲荷さんが天下って、五穀の種を降ろすんだと!!!!」という台詞から始まっていく面白おかしく盛り上がる演目だ。

とこひょ二人で舞うのだが、名前は、「エサコ」と「エサコ」という具合に同じなのである。

五穀の種を蒔くために、畑を耕して、種を蒔いて稲が育って、すぐさま刈り取って、餅をついて、見ている皆さんに降らかすというもの。

友人は、神楽を初めて見に来てくれたはずなのに、玄人的な存在感で見ながら寝ていた姿が素敵だった。

これだけ人が来るのは、この餅を降らかす時だけなので、他の幕は極少人数で満喫できるのも、ここの神楽の良いところかもしれない。

来年の春も、神楽殿に上がりたいもんである。