2020年の初頭から、コロナの流行によって春には様々な規制がとられ始め、コミュニティの中での芸能は執り行われない選択が取られた。
これは、コミュニティという守れたというか、守られているという幻想の中にある仕組みの中では、逆に一個人の判断では何もできないということを浮き彫りにしたのだ。
そんなこととは裏腹に、晴れ晴れとした自分がいたのも事実でもある。何故かというと、4月14日、15日は地元の春祭りだったので、他のことにはできなかったのだ。
運良くもご縁が繋がり2020年は、個人的に妙義神社の春祭りで奉納演奏をやらせていただいたのである。
そんなご縁が毎年続いて、今年は地元の賀茂神社の春祭りが開催されるので、4月14日の午前中に奉納演奏をやらせてもらいに、家族で行ってきたのだ。
毎回思うが、妙義神社は清々しい中にも厳格な空氣に満ちている。そんな中で奉納演奏をできることは、とても嬉しいことでもあり、自分自身を見つめることにもなる貴重な機会なのである。
そしてその後は、賀茂神社の春祭りの宵祭りの準備へと向かったのだった。
神楽師たちが、賀茂神社に15時に集まっていそいそと準備に取り掛かる。
普段は、ひっそりしている神楽殿の空氣が、掃除して場を整えていくと、キラキラしてくるのが印象的だ。
たくさんある捕物ひとつひとつの振り下げ(紙垂)を新しいもの付け替えていく。
これが細かな作業なので、かなり面倒でもあるのが、不思議と最近ではこの作業が好きになってきてしまったのも事実なのだ。
宵祭りは、御神事が終わってから、「白黒翁三番叟」という舞台浄めの舞が上演される。
勝手な見解ではあるが、芸能的には、山の神的幽玄な舞の「白翁」に対して、古い芸能の形態を残す猿楽的躍動的な舞の「黒翁」があり、この陰陽的存在がひとつの舞台で融合することで、陰と陽の統合が行われ一番重要なバランスである「中庸」の位置にこの神楽殿の時空が調整されるのだと思うのだ。
とても渋い幕だが、ここの神楽の奉納の最初に上演される舞台浄めの舞とされている。
ここの神楽で一番のおすすめは、実は人がほとんど来ない宵祭りなのだ。10人も見ている人が居ないので、境内は静まりかえっている。そんな中で神楽殿だけが暗闇に浮き上がっているようにも見えて、かなり幻想的な空間だ。
日本でここにしかないという「屑紙拾い三番叟」も上演され、神楽的時空は加速していった。
今回の春祭りでは三役を舞った。「白翁」「手力男命」「稲荷山種蒔きの舞のエサコ」だ。
手力男命の時に使う、笹を神社の奥の鎮守の森に取りに行ったが、3年の間休んだので、少なくなった笹が復活を遂げていたのは、ありがたいことだった。
この鎮守の森の入り口には、鹿島神宮と香取神宮が祀られている。雨上がりで色濃い空氣に満ちていて、初めてだとここの森に入るのは躊躇してしまう雰囲氣である。
白翁は、ここの神楽の中で唯一刀を抜く役だ。その刀を抜いて三方固めという神楽殿の中に三角を描く。三方固めをするのは、この白翁と大蛇のみなので、特殊な位置にある重要な役でもある。
これまで白翁は、前の会長さんがメインで担当していたのだが、もう舞台に立つことができなくなり、俺が引き継いだ形になっている。淡々として渋い舞だが、その効力は相当なものだと思っている。
今回、この真剣を抜いての鈴舞は、かなりすごい感覚を味わってしまった。「天天テケ天天」という囃子の中で、鈴の位置が「天地人」と三段階の場所に移動していく。そして、その鈴を視線で常に追っていきつつの四方固めを行っていくのだ。
確実にその効果だと思うが、時空が変化して自分がどこにいるのか分からなくなってしまう感覚に陥ってしまったのだった。
手力男命の役は、神楽師になってからずっとやっているので、30年の時が熟成されている舞でもある。
今回、神楽師がギリギリなこともあり、急遽、宵祭りの時に会長から「今ちゃん、アマテラスやってくれないかなぁ?」と打診され、五歳の娘が初めて神楽殿に立つことになったのだ。
親子の立場は逆転して、アマテラスに対しては頭を下げるのである。神楽史上、最年少での出演は、アイス5個での出演交渉で実を結んだのでした。
あいにくの雨だったが、神社の春祭りに神楽が奉納されるのは、とても意味あることだと改めて思ったのだった。
雨だったので、新会長となった岡部さんが、神楽殿の下で餅まきの時に介添役として登場した!!!
このユーモアある印象的な一枚が、ここの神楽の雰囲氣を現している様で、春祭りの締めくくりにアップしておきたい。