「星空のコンチェルティーノ・お琴」という作品に初めて参加したのは、忘れもしない、2011年、東日本大震災の年のお盆だった。それも8月13日、14日の連日公演だったのだ。
劇中での音楽なのだが、役者陣の創り出す雰囲気を、より効果的に増幅していくような音を必要とされる現場だった。
演奏家が前に出るというのではなく、引いて見てその空間で起きている物語の要素を最大限に引き出して行く音が必要とされたのだった。
勿論、台本はあるのだが、演出の大日琳太郎さんからの指示は、セリフ部分に、ここからここまで、神楽太鼓。と書いてあり、コミカルに!シリアスに!星の音!という感じの表現なのだ。
つかみ所がなくて、まさに実力を試される感じだった。
琳太郎さんの好みと、俺の音の好みが重なる部分があるようで、多少の擦り合わせをして、ほとんど自由にやらせてもらって、ほぼOK!となる感じではあったが、今までの音へのアプローチと違う表現が必要になったりして、非常に勉強になる現場だった。
本番は、大震災のその年ということもあり、1000人規模のホールに200人程度のお客さんだったのだが、いざ、始まってみると、超満員の熱量を感じるほどで、やはり、多くの亡くなった方々が帰ってきていたのかな?と思える公演だった。
実際に、役者陣もその感覚を同じくしていて、舞台作品の奥深さを感じた作品となったのだった。
そんな作品である「星空のコンチェルティーノ・お琴」が、3月11日、12日と日本橋公会堂で行われたのだ。
劇中で使われる竹は、庭の竹を切って、桐生から持って行った。この竹の梱包がなかなか大変だった。
本来、こんなことは音楽家の仕事ではないが、都内で竹の調達は難しいだろうし、基本的に、車に工夫して何かをつけて運んだりするのが好きなので、一石二鳥でもあり、こんな作業が楽しめてしまうのである。
思いの他長くなってしまったので、赤い布を垂らしての道中となったのだ。しっかり梱包したので、高速でのダメージもなく、無事に会場に届けることができたのだった。
甥っ子にも手伝ってもらって、準備も楽しく終了!
衣装は、慰霊公演でもあるので、友人のおばあちゃんが着ていた紋付を母にリメイクしてもらったものにした。
赤い紐で吊っている金属は、トラックの板バネで、もの凄く固い鉄だ。これをサンダーで切ったのだが、いやいや一苦労だったのだが、その音は他には無い不思議なものとなっている。
自分のライブの時は、ほぼリハーサルはしないので、多くのメンバーが関わるリハーサルや準備の時間というのが、結構良いもんだなあ、とじっくり観察してしまう。
星の音は、上にある台湾の夜市で偶然一つだけ売っていた風鈴!
下の舞台の幕は、主演の太田君の父上の教え子さんが製作したものが使われ、作品を引き立たせてくれていた。この太田君の父上は、なんと土取さんと仕事をしたこともあるというのを聞いて、これまた不思議なご縁だなあ、と思ってしまった。。。
庭に生えていた、竹が舞台でダンサーの方たちによって、新たに命を吹き込まれていたのが、何気に嬉しかったなあ。今まで何度か関わったこの「お琴」という作品の中で、一番良い笹竹の精霊役のダンサーだったと断言できるほど、良い雰囲気を創り出してくれていた。
作品自体も、削がれる部分は削がれ、大切な部分がよりクローズアップされて、作品に血が通い始めた感じを受けた。
しかし、まだまだ伸びしろがあるので、個人的にもスキルアップしておきたいところである。
ソロライブやセッションと違って、楽器をセットできるスペースに限りがあり、その中でどうやって、やりやすく最も効果的にセッティングするのか、というのが自分自身との勝負となるんだなあ、と今回思った。
そんなこともあり、セッティングに結構時間がかかってしまったのが個人的な反省点である。
こういった時、ついつい多めに楽器を置きがちなのだが、やはり削いで行くことが大切で、今回は、持って行ったが、神楽太鼓すら使わないことにしてしまった。
以前だったら、絶対に無理しても使っていた気がするが、一番得意な神楽太鼓を引っ込めることができたのは、良い選択だったと思うのである。
表の舞台がうまくいくのは、やはり、しかりとした実力派の裏方が居てはじめて成立していくのが、リアルに感じられる舞台でありました。
初日の3月11日には、照明の太郎さんと音響の浜ちゃんと池田くんとプチ打ち上げができたのが、一番楽しい時間だったかなあ。
この大日琳太郎組では、表舞台に出ていても、限りなく裏方よりな演奏家というのを自覚してしまった瞬間でもありました。
東日本大震災で亡くなられた多くの御霊のご冥福を祈るとともに、ご来場いただいたみなさんをはじめ、関係者のみなさんに心より感謝いたします。
意味ある舞台に参加できたことを、今後の自分の活動にいかしていこうと思っております。